哲学の原理

<私は考える、ゆえに私はある>

 そうするとただちに、私は気づいた、私がこのようにすべては偽である、と考えている間も、そう考えている私は必然的に何ものかでなければならぬ、と。そして「私は考える、ゆえに私はある」というこの真理は、懐疑論者のどのような法外な想定によってもゆり動かしえぬほど、堅固な確実なものであることを、私は認めたから、私はこの真理を、私の求めていた哲学の第一原理として、もはや安心して受け入れることができる、と判断した。

方法序説 第四部 ルネ・デカルト

1637年
野田又夫訳(中央公論新社)

 「我思う、ゆえに我あり」・・・長らく哲学の第一原理と言われ、疑うことができない真理とされてきたこの発想は、実は大きな勘違いではないだろうか?今では様々な観点から批判されている。

 自分はいったい何によって自分であるのか?それは自分と自分以外のものを区別できるからである。つまり他者があると確信できるからだ。そうであるならば自分より先に他者があるのは当然ではないか。たしかに他者を認めるのは自分であるが、自分があることを優先する理由がない。

 この極端な考えは、まず最初に自分が存在することに強くこだわり、これを原理と言ってしまったのだ。

 なぜこれが長らく真理と言われてきたのか実に不思議なことだ。

 こういう考えがあっても良かったのだが、あまりにも過大評価されすぎた。

​<原的に与える働きをする直観>

 一切の諸原理の中でもとりわけ肝心要の原理というものがある。
 それはすなわち、こういうものである。
 すべての原的に与える働きをする直観こそは、認識の正当性の源泉であるということ、つまり、われわれに対し「直観」のうちで原的に、(いわばその生身のありありとした現実性において)、呈示されてくるすべてのものは、それが自分を与えてくるとおりのままに、しかしまた、それがその際自分を与えてくる限界内においてのみ、端的に受け取られねばならないということ、これである。

イデーン第二四節 

エドムント・フッサール

1913年

渡辺二郎訳(イデーン みすず書房)
 

 フッサールはデカルトの継承者のような人である。フッサールは、物のありのままは言い当てることはできないが、心のありのままは言い当てることができると考えて果敢にそれに挑んだ。

 心のありのままを言い当てることの原理としてフッサールが規定したのが、この「原的に与える働きをする直観」である。

​ 厳めしい言い方だが、実は何ということもなく、私たちが日常感じている理解や判断のもととなる働きのことだ。それを彼は生真面目にいちいち言葉で厳格に言い表そうとする。その徹底した努力は鬼気迫るほどであり、神経症的ですらある。

​ 「心のありのままを記述すること」・・・それは、近代的な自我形成の一大イベントだった。近代文学でも近代芸術でも、特に重要なテーマとなった。したがって芸術とは「自己表現」とイコールとみなされてきた。

 今にして思えば、自分の心のありようがなぜそれほど問題なのか?これもまた近代の自己愛シンドロームなのだろうか。

​<純粋経験>

 経験するというのは事実其儘(そのまま)に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。純粋というのは、普通に経験といっている者もその実は何らかの思想を交えているから、毫(ごう)も思慮分別を加えない、真に経験其儘の状態をいうのである。たとえば、色を見、音を聞く刹那(せつな)、未だこれが外物の作用であるとか、我がこれを感じているとかいうような考のないのみならず、この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。それで純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している。これが経験の最醇なる者である。

善の研究 第1章

西田幾多郎

明治44年 1911年 

 西田の思想はデカルトとは正反対である。彼が哲学の原理として選んだのは、自分の存在を認めず、自分が考えているということすら全く現れない主客未分化の状態をいう。

 ここにおいてやはり「純粋」という言葉を選んでいるところが、理想を求めざるをえない近代的な態度だろう。

 

 しかし、後述する「世界新秩序の原理」のように、戦時の時流に乗った形に自己の哲学を安易に適用したような文章を書いてしまうのは、とても理解しがたいことである。