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​はじめに
「理想による空間」

 人間は理想を求める

 私たちは、目の前にない価値を認め、行動し、現実を変えていく。
 理想は私たちを高いところにつれていく。本当はこうではないはずだ。こうでなければならない。こうであるべきだ・・・と。
 「すべての」「べきだ」「ねばならない」「絶対」「純粋」「必然」「理念」「原理」 ---   これらが理想を語るときによく使われる言葉である。

 しかし時に理想は私たちを危険な場所に連れて行く。
 人類史をつくり、人々の生き方をつくってきた理想は、現実の見方を歪め、不幸のもとを作ってきた。

 近代になって人間は理想追求の便利な道具を手に入れた。ーそれは「科学」である。
 もっとも悪い意味で引用されたのは進化論だ。
 ダーウィンの進化論は無謀に単純化され社会に適応された。
 社会は野蛮から文明に直線的に進化し、優れた国が劣った国を支配するのは当然とされ、帝国主義的支配を正当化した。
 人種の概念にも生物学的進化論が無理やり適用され、人種差別を正当化した。
 かくして「白人の文明国」こそ、理想追及のモデルとなったのである。

 社会は進化するという考えは歴史の見方にも変化をもたらした。歴史とは過去を解釈することのみではなく未来をも含むものとなり、人間は「歴史的必然」に命ぜられて生きるという新しい観念が誕生した。それを革命理論に応用したのが、二十世紀の一大事件である共産主義である。

 一方、アジア主義という帝国主義への対抗イデオロギーも生まれた。というより、東洋の思想がアジア主義という近代の外見を装わなければならなかった。
 しかし、多様なアジアの特質を一元的な理想や理念で語るのは極めて難しかった。
 「仁」「徳」「王道」などという精神的キーワードが使われたが、全体としてうまくいったとはいいがたい。
 しかしアジア主義はそれぞれの国において強味を発揮しナショナリズムの高揚に役立ち、帝国主義支配からの独立の原動力になった。

 我が国においても、日本という概念が深化され純化され理想化されてきた。そこには美との強い関連がみられる。

 戦後には新しい理想が登場した。平和、人権、自由、平等、民主主義などである。
 日本は敗戦し、日本という理想は意図的に取り除かれ、その代わりこれらの新しい理想を刷り込まれた、と言われている。

 理想はその実現のために、現実を特殊な見方で解釈する。こうであるはずだというものの見方によって。
 そして理想は時に争いのもととなった。理想は戦争を利用した。

 振り返ると、私たちは、理想の「想い方」を間違ってきたのではないだろうか?

 私は理想を一度「書かれた文章」であると捉えることとした。
 それは近代の画家が「絵とはキャンバスの上にある絵の具である」と一度認め、そこから近代絵画を作っていったことと似ている。


 文章とは(紙媒体であるならば)紙の上に載った二次元のもので、その意味内容もそれを読む限りにおいては二次元にとどまる。
 私がやろうとすることは、個々の文章の意味内容の相互の関係を分析し、
 新しい別の意味を見出すことである。
 いわば「理想によって構成される三次元空間」をつくることである。

 理想という概念による立体造形である。誤解のないように言うがあくまで概念的な造形であり、文字や文章がカリグラムのように組み合わされているわけではない。いくつかの理想について書かれた文の、矛盾や、すれ違い、共通点などの指摘によって構成されている。

 そして、さまざまな理想をその空間に配置し、その間の空間には何があるのか、その延長の別の場所には何があるのか、ということを見渡せるような構造をつくりたいと考えた。

 理想は今も存在している。持続的成長、ジェンダー平等、グローバリゼーション、ナショナリズムなど、依然人々と社会を動かす原動力となっている。

 語られてきた様々な理想を、この三次元空間で解析することは、近代の辿ってきた道、そして これからの道を理解する一つの方法となると思う。


 私は歴史学者ではないし政治学者でも思想家でもない。それらの分野の本格的な研究は到底できない。
 ただ私は芸術家として、人類の知に光をあて、風が通るような空間をつくりたいと思っている。

 

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